泣いて馬謖を斬る
意味:私情を捨てて法を守る
建興六年(西暦228年)、諸葛亮は軍を率いて祁山へ向かった。その時、魏延や呉懿といった宿将がいたため、世間の者は皆、彼らを先鋒にすべきだと考えていた。しかし諸葛亮は衆論に背き、馬謖を抜擢して大軍の前線を任せた。馬謖は街亭で魏の将の張郃と戦ったが、敗れて軍は散り散りになった。諸葛亮は進む拠点を失い、軍を退いて漢中へ戻った。馬謖は獄に下され、そのまま死んだ。諸葛亮はこれを聞いて涙を流した。龐統は三十六歳で死に、馬謖は三十九歳であった。
『襄陽記』によると、馬謖は臨終にあたり、諸葛亮に手紙を書いた。「諸葛亮様は、これまで私をまるで自分の子のように見てくださり、私もまたあなたを父のように思ってまいりました。どうか、鯀を誅して禹を立てた義(神話の時代に、父の鯀は失敗をして罰せられたが、子の禹までは罰せられず仕事を引き継いで成功させたという話)を深くお考えになり、これまでの私たちの情誼を、このことで損なわないでください。私はたとえ死んでも、黄泉において何の恨みもございません。」その時、十万の兵がこれを聞いて涙を流した。諸葛亮は自ら臨んでとむらい、馬謖の遺児を生前と変わらぬように扱った。
のちに蔣琬が漢中に来て諸葛亮に言った。「昔、楚が名将の得臣を殺したとき、敵国である晋の文公がどれほど喜んだか想像できます。天下がまだ定まらぬ時に、智謀ある士を斬るのは惜しくはありませんか。」諸葛亮は涙を流して言った。「その昔、孫武が天下において勝利を収めたのは、法を厳格にしたからだ。だからこそ、晋の楊干が法を乱したとき、晋の魏絳はその従者を斬った。今は四海が分裂し、戦いが始まったばかりだ。ここで法を廃してしまえば、どうして賊を討てようか。」
『三国志 蜀志 馬良伝(注釈)』




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