怨み骨髄に徹す(うらみこつずいにてっす)

故事成語

怨(うら)み骨(こつ)髄(ずい)に徹(てっ)す
意味:心の底から憎む

 あるとき、鄭(てい)の人が秦(しん)に来て言った。「私は鄭(てい)の城門を管理しています。鄭(てい)は奇襲できます。」秦(しん)の穆(ぼく)公(こう)は、配下の蹇(けん)叔(しゅく)と百(ひゃく)里(り)奚(けい)に意見を求めた。二人は答えた。「まっすぐ千里も離れた国を急襲して、成功する例はほとんどありません。それに、鄭(てい)を売るこの男が、我が国の者に情報を漏らし、鄭(てい)に知らせない保証がどこにありましょう。行くべきではありません。」穆(ぼく)公(こう)は言った。「お前たちは分かっていない。私はすでに決めた。」

 こうして秦は出兵し、百(ひゃく)里(り)奚(けい)の子の孟(もう)明(めい)視(し)と、蹇(けん)叔(しゅく)の子の西(せい)乞(きつ)術(じゅつ)と、白(はく)乙(いつ)丙(へい)を将軍として軍を進めた。出発の日、百(ひゃく)里(り)奚(けい)と蹇(けん)叔(しゅく)は、わが子を見送って泣いた。穆(ぼく)公(こう)はこれを聞き、怒って言った。「私が軍を出したというのに、お前たちは泣いて軍の士気をくじくつもりか。」二人は答えた。「君命に逆らって軍の邪魔をするつもりではございません。ただ、軍が出れば我らの子も従軍します。我らは老い、帰ってくるまで生きていられるか分かりません。そのために泣いたのです。」二人は下がり、子に向かって言った。「お前たちの軍は必ず敗れる。その敗れる場所は殽(こう)の険しい地形だ。」

 穆(ぼく)公(こう)三十三年(紀元前627年)の春、秦軍は東へ進み、晋(しん)の領土を横切り、周(しゅう)の北門を通って鄭(てい)に向かった。周の王族の王(おう)孫(そん)満(まん)は言った。「秦軍は礼を失している。これで敗れないはずがない。」秦軍が滑(かつ)の地に至ったとき、鄭(てい)の商人の弦(げん)高(こう)が十二頭の牛を周に売りに行く途中で秦軍に出くわした。弦(げん)高(こう)は捕らえられて殺されることを恐れ、牛を献上して言った。「大国が鄭(てい)を討とうとしていると聞きました。鄭(てい)の君主は守備を整え、私に牛十二頭を持たせて兵士の皆さまに労いを申し上げるよう命じたのです。」秦の三将は互いに言い合った。「鄭(てい)を奇襲するつもりだったが、鄭(てい)はすでに気づいている。今から行っても間に合わない。」そこで秦軍は滑(かつ)を滅ぼした。滑(かつ)は晋(しん)の国境の町であった。

 そのころ、晋(しん)は文(ぶん)公(こう)の正式な埋葬が終わっていない喪中であった。太(たい)子(し)(のちの襄(じょう)公(こう))は怒って言った。「秦は父を亡くしたばかりの私を侮り、喪中を狙って滑(かつ)を攻め落とした。」そこで太(たい)子(し)は墨の喪服に白い喪帯を締め、軍を発して殽(こう)の地で秦軍を待ち伏せし、これを攻撃した。秦軍は大敗し、一人として逃げ延びた者はなかった。晋軍は秦の将軍三名を捕虜として連れ帰った。文(ぶん)公(こう)の夫人は秦の穆(ぼく)公(こう)の娘であったので、捕らえられた三人の将軍のために嘆願して言った。「穆(ぼく)公(こう)のこの三人への怨(うら)みは骨(ほね)の髄(ずい)まで徹(とお)っております。どうか三人を秦にお返しください。穆(ぼく)公(こう)が彼らを煮殺して恨みを晴らすことができるように。」太(たい)子(し)はこれを許し、三人の将軍を秦へ帰した。

 三人が秦に到着すると、穆(ぼく)公(こう)は喪服姿で郊外まで出迎え、彼らに向かって泣きながら言った。「私が百(ひゃく)里(り)奚(けい)や蹇(けん)叔(しゅく)の言葉を用いなかったために、そなたら三人を辱めてしまった。三人に何の罪があろうか。どうか心を尽くしてこの恥をすすぎ、怠ることのないように。」そして穆(ぼく)公(こう)は三人の官位と俸禄を元どおりに戻し、以前よりもいっそう厚遇した。

『史記 秦(しん)本(ほん)紀(ぎ)』

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