治世の能臣 乱世の奸雄
意味:平和な世では有能な官僚、乱れた世では悪い英雄となる人物
曹操は若い頃、機知に富み策略にも長けていたが、義侠心を気取って遊び歩き、遊興にふけってばかりで、まじめに本業に取り組まなかったため、世間の人々は彼を特別視しなかった。『曹瞞伝』によれば、曹操は若い頃、鷹狩や犬を使った狩猟を好み、遊び歩いて度を越していた。そのため叔父がしばしば父の曹嵩に訴えた。曹操はそれを苦にしていたが、ある日叔父に道で出会うと、わざと顔を歪め口を曲げて見せた。叔父が不思議に思って理由を尋ねると、曹操は「中風(脳卒中)になってしまいました)」と答えた。叔父はそれを曹嵩に告げたが、曹嵩が呼び寄せてみると曹操の顔は元通りであった。曹嵩が「叔父の話では中風にかかったというが、もう治ったのか」と問うと、曹操は「初めから中風ではありません。ただ叔父に嫌われているので、欺かれただけです」と答えた。曹嵩は疑いを抱き、それ以後、叔父の言葉を信じなくなった。こうして曹操はますます自由に振る舞うことができた。
梁国の橋玄と、南陽の何顒だけは曹操を特別視した。橋玄は曹操に「天下は乱れようとしている。世に選ばれた才でなければ救えない。安定させられるのは君ではないか」と語った。『魏書』によれば、太尉(最高位の軍事官職)の橋玄は人を見る目で名高く、曹操を見て驚き「天下の名士を多く見てきたが、君ほどの者はなかった。君は自らをよく律しなさい。私は老いた。妻子を君に託したい」と言った。これによって曹操の名声は高まった。『世説新語』によれば、橋玄は曹操に「君はまだ名が知られていない。許子将と交わるべきだ」と勧めた。曹操は許子将を訪ね、受け入れられたことで名が知られるようになった。『異同雑語』によれば、曹操はかつて中常侍(皇帝の側近の宦官)の張譲の屋敷に忍び込んだが、張譲に気づかれ、戟を振り回して庭を走り抜け、塀を飛び越えて逃げた。武勇は人並み外れており、誰も害することができなかった。さらに多くの書を読み、特に兵法を好み、諸家の兵法を抜粋して『接要』と名付け、孫武の書いた十三篇の兵法書(孫子)にも注釈を加え、世に伝わった。
ある時、曹操は許子将に「私はどんな人間か」と尋ねた。許子将は答えなかったが、しつこく問われたので、「君は治世では能臣(有能な臣下)、乱世では奸雄(奸な英雄)だ」と言った。曹操は大笑いした。
『三国志 魏志 武帝紀(注釈)』




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