登龍門(とうりゅうもん)

後漢書

(とう)(りゅう)(もん) 
意味:出世の関門を突破する

 ()(よう)はまた昇進し、再び()(れい)(こう)()に任命された。その頃、(かん)(がん)(きゅう)(ちゅう)を取り仕切っていた役人)の(ちょう)(じょう)の弟である(ちょう)(さく)が、()(おう)県の(けん)(れい)を務めていたが、極めて(どん)(よく)で残虐な政治を行い、ついには妊婦を殺すという暴虐にまで及んだ。(ちょう)(さく)()(よう)の厳格な威名を聞き、罪を恐れて都へ逃げ帰り、(ちょう)(じょう)の弟の家に身を隠した。柱の隙間に潜んでいたが、()(よう)はその所在を知り、部下を率いて柱を破壊して(ちょう)(さく)を捕らえ、洛陽の(ろう)に送った。そして取り調べが終わるやいなや、すぐに処刑した。(ちょう)(じょう)は無実の罪だと皇帝に訴え、皇帝は()(よう)を殿中に召し出し、自ら御座に臨んで、「なぜ事前に報告せず、勝手に死刑にしたのか」と問いただした。

 ()(よう)は答えて言った。「昔、(しん)の文公は(えい)の成公を捕らえて都に連れ帰りましたが、『(しゅん)(じゅう)』はこれを()としました。また、『(らい)()』には、『公族に罪があれば、たとえ(ゆる)すべしといえども、司法官は法に従うべきである』とあります。また、かつて孔子が()()(こう)であったとき、七日で(しょう)(せい)(ぼう)(ちゅう)(さつ)しました。私は()(れい)(こう)()の官職に就いてすでに十日が経過しております。私情によって処置を遅らせることが過失になるのではと恐れておりましたが、迅速に処理したことが罪とされるとは思いもよりませんでした。確かに私は責任を負うべきであり、死をも辞しません。ただ五日だけ(ゆう)()をいただき、元凶を討ち果たしたのち、煮えたぎる(かま)に入ることこそ、私の本望です。」

 皇帝はこれ以上何も言えず、(ちょう)(じょう)に向かって言った。「これはお前の弟の罪であり、()(れい)(こう)()()(よう)に何の過ちがあるのか」。こうして()(よう)は釈放された。この事件以後、権勢をふるっていた(かん)(がん)たちは皆、身を低くして息をひそめ、休暇の日にも(きゅう)(ちゅう)から出ることを恐れた。皇帝がその理由を尋ねると、皆が頭を地に打ちつけて泣きながら言った。「()(よう)が怖いのです」と。

 この頃、朝廷は日に日に乱れ、政治の規律は崩壊していった。()(よう)ただ一人が風紀を正し、道義を守る立場を貫き、名声によって自らを高めていた。彼に認められ、彼と交際を許された人物は、「(りゅう)(もん)(鯉が登ると龍になるという伝説がある川)を登った」と称されるほどであった。

『後漢書 ()(よう)伝』

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