登龍門
意味:出世の関門を突破する
李膺はまた昇進し、再び司隸校尉に任命された。その頃、宦官(宮中を取り仕切っていた役人)の張讓の弟である張朔が、野王県の県令を務めていたが、極めて貪欲で残虐な政治を行い、ついには妊婦を殺すという暴虐にまで及んだ。張朔は李膺の厳格な威名を聞き、罪を恐れて都へ逃げ帰り、張讓の弟の家に身を隠した。柱の隙間に潜んでいたが、李膺はその所在を知り、部下を率いて柱を破壊して張朔を捕らえ、洛陽の牢に送った。そして取り調べが終わるやいなや、すぐに処刑した。張讓は無実の罪だと皇帝に訴え、皇帝は李膺を殿中に召し出し、自ら御座に臨んで、「なぜ事前に報告せず、勝手に死刑にしたのか」と問いただした。
李膺は答えて言った。「昔、晋の文公は衛の成公を捕らえて都に連れ帰りましたが、『春秋』はこれを是としました。また、『礼記』には、『公族に罪があれば、たとえ赦すべしといえども、司法官は法に従うべきである』とあります。また、かつて孔子が魯の司寇であったとき、七日で少正卯を誅殺しました。私は司隸校尉の官職に就いてすでに十日が経過しております。私情によって処置を遅らせることが過失になるのではと恐れておりましたが、迅速に処理したことが罪とされるとは思いもよりませんでした。確かに私は責任を負うべきであり、死をも辞しません。ただ五日だけ猶予をいただき、元凶を討ち果たしたのち、煮えたぎる釜に入ることこそ、私の本望です。」
皇帝はこれ以上何も言えず、張讓に向かって言った。「これはお前の弟の罪であり、司隸校尉の李膺に何の過ちがあるのか」。こうして李膺は釈放された。この事件以後、権勢をふるっていた宦官たちは皆、身を低くして息をひそめ、休暇の日にも宮中から出ることを恐れた。皇帝がその理由を尋ねると、皆が頭を地に打ちつけて泣きながら言った。「李膺が怖いのです」と。
この頃、朝廷は日に日に乱れ、政治の規律は崩壊していった。李膺ただ一人が風紀を正し、道義を守る立場を貫き、名声によって自らを高めていた。彼に認められ、彼と交際を許された人物は、「龍門(鯉が登ると龍になるという伝説がある川)を登った」と称されるほどであった。
『後漢書 李膺伝』

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